2014年8月25日月曜日

小山内さんへの手紙

福祉法人アンビシャス
小山内美智子さま

 このたびは大変お世話になります。
 9月20日・16時からインタビューをお願いいたしました東京都目黒区の柴田靖子と申します。お忙しい中、本当にありがとうございます。
 週末、手紙を送らせていただいたのですが、その中で現在まとめている原稿と、今回北斗市にシェアハウス(グループホーム)を造ろうとするにあたっての企画メモを同封すると書きながら、舞い上がって手紙のみを送ってしまいました。本日別便で送らせていただきますのでよろしくお願いいたします。

 さて、インタビューの内容ですが、下記のようなことを考えております。主に今グルグルと思いを巡らせている「住まう、暮らす」とはどんなことなのか、なにをもってノーマルなのかということについてヒントをいただきたいと思っています。的外れな部分やご不快な点などお気づきのことがあれば教えてください。

 ○スウェーデンに渡られた理由・きっかけが、主に親ごさんたちが主体となって作ろうと運動していた福祉村(コロニーと同義と考えてよいのでしょうか?)の話し合いに、障害のある当事者自らが発言をしはじめはじめて違和感を持ったことから、ということにとても心を動かされました。その当時は福祉村というのは最先端の思想(アイデア)だったのでしょうか。それはどんなことに抗って生まれたものだったのでしょう。また同様に、それに違和感を持たれた決定的なことは何だったのか(これは本を読んで私なりに理解したのですがズレているかもしれないので)ご本人のお言葉でお聞きしたいのです。

 ○「アンビシャス」は「住まい」になりえましたか。それともそれはやはり果たせず、目的が変容していったのでしょうか。解体/分散することはありえますか。今回の北斗市については、路上生活の若者や軽犯罪で刑務所と路上を行ったり来たりしている若者が障害のある人であるという判定を受ける手助けをすれば、グループホームのサービス(介援助サービスと住住所地をもつこと)が受けられ社会で人間らしくくらすスタートが切れる、というアイデアが出発点になっています。そのため「グループホーム(ケアホーム)」というもの自体について吟味する必要があると考え、すでにグループホームを作られているかた、いま作ろうとしているかたのお話をたくさん聞いているのですが、ほとんどのかたが、グループホームを「住まい」とは考えておらず「通過点」「しょせん施設」ととらえていると知り、少しショックを受けています。行政が奨励しはじめた大規模なものは論外にしても、ごく小規模なところにおいても、です。これは、わが家も(もう機会が少なくなりましたが)ともに車いすユーザーの娘と息子、私、連れ合いの四人家族で出かけると「どこの施設ですか?」と聞く人が少なからずいたし、家庭を「運営」する身としても、あれ、今なにやら施設っぽいなとゾッとする瞬間もあり、ピンとくるところがあります。同じ障害がある人が二人以上集められたらそれは施設になってしまう、と。わたしが作りたいのは「住まい」です。何に気をつければ「住まい」になりうるでしょう。ご意見をお聞かせていただきたいです。

 ○小山内さんたちが行政(北海道すべてではなく札幌市ですよね?)に働きかけて、公営住宅の平屋部分すべてをハーフメイド方式にする約束を約束をとりつけたこと、素晴らしいアイデアです!先日、函館のバリアフリーマンション(グルームホームでは断じてありません!だれでも入居できます、と理事がきっぱり言っていました)を見学したのですが、視聴覚障害のかたも不自由なくひとり暮らしできるように、全室にアラーム灯やナースコール(実際はナースではなく介助コールで、例えばものを落としちゃったんだけど、とか痒いのでかいて、とかそういう用事で呼べるもの)がついていました。この部分がまさしくハーフメイドで取り付け口までになっていて、あとは各部屋の入居者がどんなひとで何が必要かわかってからつけるということでした。まったく思いつかなかったけどとても賢いアイデアです。ユニバーサルデザインとはこういう視点が重要だと気づかされました。こういう役立ちそうなアイデアやヒントがあったらぜひ教えてください。

 ○シェアハウスという暮らしかたが、ひとつの選択肢として一般に普及してきました。血縁と家計に過度な義務と権利を与え依存するこの国の「当たり前」にどうしても嫌悪感を持ち、心底異議を唱えているわたしにとってはとても希望のある「住まい」のかたちです。シェアハウスの中に「グループホーム(の機能を持つ)部分」を設けることも、いまのところ問題ないようです。いま、このかたちの魅力に心が傾いているのですが、気をつけるべきことはあるでしょうか。

 ○障害のある人や高齢のかたの「住まい、暮らし」について、一般に「受け皿」という言葉が使われますが、ずっと「住まい、暮らし」について取り組まれてきて、いまその言葉についてどんな印象やお考えをもたれていますか。わたしは、同じ屋根の下に暮らし同じ親に育てられながらまったく違った環境で子ども時代を過ごした娘・晴子と息子・時生を見てきて、ボンヤリとですが、一般のすべての社会資源自体が変容するべき(インテグレーション=統合、ではなくインクルージョン=万人用に生まれ変わる)なんだ、と考えはじめています。この考えについてどんな印象をもたれますか。また、アドバイスもいただきたいです。

 ○木村浩子さんのことを恥ずかしいことにご本を読み返して知りました(スウェーデン日記と夜明けのコーヒーはまだ娘・晴子が幼いころ読んだのですが、その時は子育てにも障害ということにもまったく免疫がなく驚きの連続の日々で、また障害種別・人間種別でモノを考えていたので、すごいっと驚嘆しながら「頭のハッキリした(→自分もふくめ周りの親連中が子どもたちの前で平気で使っていた言葉です。ふりかえると本当におぞましいです)」人たちのこと。あまり自分の子どもとは関係ない、とすぐに興味がほかに移ってしまったんだと思います)。ぜひ会ってお話をうかがいたい、と思っています。お口添えいただくことはできますでしょうか。

 以上です。
お会いするのが楽しみでなりません。娘・晴子も自立生活室に泊まることを楽しみにしている様子です。
お騒がせして申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いいたします。





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